病気になってからの時間のながれかた

日々の興味を持ったこと、食べること、健康を中心に書いています♪ 現在は外来受診中です、脳腫瘍になった方との情報の共有したいと思ってBlog始めました☆

家の強烈個性のあるおじいちゃんⅡ

 こんばんは、実家で一緒に住んでいた強烈な個性のあるファンキーな祖父がいたということを以前ブログで紹介しました。“日々の何でもないこと“にカテゴライズしてます。

 今日もその愛すべき変人である祖父の生態をこちらで紹介します。祖父はヘビースモーカーでした。孫がいるのにスパスパと家の中でタバコを吸っていました(時代背景もあり屋内での喫煙が普通だった時代)そしてチェーンスモーカー(死語かもしれませんね、次から次へとタバコを切らすことなく吸う人の事)だったので、1日約2箱も吸っていました、本当です。

 大工の仕事の影響で吸い込んだハウスダスト(建築材料のホコリ、アスベストでは無い)とタバコの影響で肺を悪くして亡くなりました。レントゲンの画像では肺が真っ白になっていたようです。祖父が亡くなり祖母と父は長年の喫煙をスパッと辞めました。喫煙ガムやニコチンパッチを使い努力はしていました。

 亡くなる前日の祖父の苦しそうな姿は忘れられません、不謹慎ですがころりと亡くなったので祖父の最後を看取ることができませんでした。高校の授業中に急に母が迎えに来、その後に弟の学校に行き、その足で祖父の亡くなった病院へと向かいました。あまりの急な出来事に先生が廊下から教室へ入ってきてお母さんが迎えに来ているよ、と私に伝えてくれました。車へと母と2人、廊下から靴箱へ足早に向かった事は覚えていますが、そこからの記憶が飛んでいます。その後の家で行ったお葬式のことはよく覚えています。

 祖父は病院嫌いでした、病院に行くときは俺が死ぬ時だ。ということを常に言っていたようです。

 実現してしまいました。亡くなるだいぶ前から家族は病院に行くように祖父を説得していましたがそれでも拒否していました。亡くなる前日に祖父は夕食後でしょうか2階のトイレに壁伝いによろけながら上がっていました。お爺ちゃん苦しそう、とそれを見た後に誰かに私は伝えましたがみんな手伝いもしていなかった覚えがあります。祖父は相当我慢をしており、それまで平気なふりを続けていたのでしょうがとうとう体が持たなくなったのがその時だったのかもしれません。一体どれほど前から息苦しさを隠してきたのかと考えるとゾッとするような悲しいような可哀そうな気持ちで胸がいっぱいになります。我慢するなよ!言いたい気分です。

 そして祖父は1階のトイレではなく2階のトイレを常に使っていました、最後までそのポリシーを曲げませんでした。とうとう限界を感じたのでしょう、説得に応じてその翌朝に父が運転する車で一番近くの市内にある総合病院へと向かいますが、3列シートの車の2列目又は3列目で、祖母の隣で病院に到着し、2人は祖父が眠っているのかと思い着いたよー、と声をかけた時にはすでに息をしていなかったようです。肺の病気は苦しくて大変とよく聞きます、どれくらいの期間でしょう苦しかったはずです。祖母の横で亡くなったのがせめてもの救いです。声掛けに反応しないことに気が付くまで父も祖母も祖父が亡くなった事に気が付いておらず、祖父の最後は安らかな顔だったに違いありません。

 なので、駐車場ではなくメインの入り口でもなく救急搬送の入り口に車ごと行くように指示されてタンカーに乗せられて蘇生処置を受け、その後に死亡宣告を受けました。

 頑固な祖父です、そして私はそんな祖父によく似ています。変なとこにポリシーや美的感覚を見出す私たち。

 私も1階のトイレが新品になるまでは常に2階のトイレを使っていました。

 

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喫煙の歴史のギャップ